怠惰な発明家(2)
 一つ上へ

高校までとは少し違うメロディーで授業終了のチャイムが鳴り響く。12時の大食堂。
この時間のここの混雑さは尋常ではない。大学側も毎年いくらか工夫をしているようだが焼き石に水である。一学年1000人ほどと考えても6000人は学生がいるのだ。
混雑するカウンター前でランチをぶちまけてしまう事故も数度見たことがある。
そこまではいかなくとも一番多いのは、おぼんの上に味噌汁をこぼすことだろう。本大学の学生でこれをやったことのない学生はいないと思う。自分もたびたびやる。
これがなんとかならないかふと考えた。
おわんの形が改良できそうだ。
あれでは横に力がかかった時こぼれるのは必然的なことである。
左下図のようにてっぺんに”かえし”のついているおわんがあったらどうか!
バランスを崩したとき傾いた液面は右下図のようにポチャッと椀の中に戻りそうではないか!しかも作るのにかかる手間も洗うのにかかる手間もそう変わらなそうである!
しかし、自分、専攻は生産管理なのでこれが実現可能かどうかは誰か”流体”の方に頼まれたい。

               














思考の思考
 一つ上へ

「あいつが何を思ってるのか知りたい!」
などと思ったことがある人はいるだろうか。
幸か不幸か 人間は他人の心は読めない。
「職場にいい人なのか悪い人なのかわからない人がいて困る」
と言ってきた母に
「そんなのいい方にとっておけばいいんじゃない?そうすれば自分も気持ちいいし、それで相手にも優しくできるじゃん。」
とアドバイスしたことがある。
もちろんいい方にとらえても相手は悪意で行ったかもしれない。だが本当は違っていても問題はない。
自分が物事の判断のよしあしを付ける基準は一つだ。
真実はわからない。
だから実際にあっているかではなく、その考え方が自分にどんな影響を及ぼすかを考えてみる。その時、この考え方は、使えるとか、だめだ、とか思ったり






小さく大きな発見
 一つ上へ

高校時代、少しバイトをした事がある。
荷物を運んだり整理したりするだけの簡単な仕事。
3時間位の作業を終え、その日は2500円位もらえた気がする。
そのまま文房具屋へ行き、授業で必要な電卓を買いに行った。
小綺麗で小さな電卓を手にした瞬間、不思議な感覚にとらわれる。
恐らく自分は一生かかってもこれを作る事はできないだろう。
なぜいとも簡単に”自分の所有物”になったのか・・・?

いや、電卓に限らず自分の身の周りにありふれているものを考えると、何一つ自分では作れないではないか。だが自分のものだった。それは不思議な感覚だった。
世界で最初に作られたコンピューターは一般人が一生働いても買えないような額だったに違いない。
これはものすごい事だと思った。
18世紀、イギリスの産業革命に始まった大量生産の効率化と合理化は極みを極め、
ついには"電卓のような精密機械"と"単純労働"の価値を一緒にしえました。 この時、自分は、生産管理という分野に興味を持ちだしていた。

自然界ではどんなすばらしいことを発見しても1世代限りの知識である。しかし、複雑で高度な集団社会を営んでいる人間は、発見した知識を次世代に伝える知恵を持っている。それは言葉であり、文字であり・・・それこそが、人間の繁栄の最大の理由だと言われている。
原始時代には木を激しくこすると発火するという発見、現代では金属の温度を著しく下げると電気抵抗が無くなるという超伝導現象の発見など。
ところでこれら小さな発見に比べれば、生まれた時から歩き方を知っている馬や、教えられもせずに巣の張り方を知っているクモの方がよほど驚愕的な能力だろう。しかし、20万年もの間蓄積された人類の小さな発見は、人間を自然界の頂点に君臨させ、他の種の追随を許すことはない。

悲しいことに、個々の人間の存在はあまりにも小さい。
もし一人の人間としての自分が”世の中がどうなってもいい”と思うほどに苦しみ、悲しんだとしても、あるいは死んだとしても
窓からの眺めは恐ろしいほどに何も変わらないのではないだろうか。
しかしながら、人間が織り成してきた小さな発見の連鎖に自分が加わることができたなら、私は生まれてきて最大の喜びを得ることができるだろう