正義のありか
 一つ上へ

心のどこかで嘘とはわかりながらも、
子供時代はTVの中のヒーローに魅入られていた。
結構はまっていた、○○レンジャーだとか。今、アメリカの子供達に人気らしい。
・・・いや、もしかしたら実話と思っていたかもしれない。
毎週レンジャーが勝つからいいが、彼等が負けたらパニクって親の所に駆け出して行ったかもしれない。

あれは特撮の作り物だからいい。
・・・あれはまだいい。
あんな風にそう簡単にいかないのが現実の世界
言ってしまえば皆が正義で皆が悪。
あからさまに悪を名乗ってくれる軍団などはいない。
人間同士のぶつかり合いは互いに矛盾していても双方が正しさを主張し、争う。

ある漫画で気の強い女の子が出てきた。
少女は祖父に向かって
「旧日本軍の兵隊ってひどい事したんだね!信じられない!」
と責め立てた。
学校で習ったらしい。
しばらく黙っていた祖父は
「日本軍は悪い事もしたがなぁ・・・」
とつぶやくだけだった。
そして数日後、今度は捕鯨禁止令を習い、
「昔は鯨なんて食べたの!どうしてあんなやさしそうな動物を!」
と、くってかかった。祖父は
「当時は悪い事じゃなかったんだよ・・!」
と必死になだめるしかなく、しまいには何も言えなくなってしまった。

少女の主張は確かにまずい
2番目の例などは特にわかりやすい。
戦争については、・・それはひどい事もあったかもしれないが。命をかけて国のために戦ってくれた事は違いないし、
そこでトカゲのしっぽのように先人を捨て、他人を責めるように責めるのも間違っている。
鯨を食べるのにしても。当時悪い事でなかったのなら仕方がない。
彼女だって、もしこれから先、牛を食べてはいけないという法律ができたら、未来の孫に同じ事を言われるのではないだろうか。
「牛なんて食べてたの!?あんなやさしそうな動物を!」と。
「当時は悪い事じゃなかったんだよ。」と言うしかない。

もちろん彼女も自分の正義感から起こした行動だったであろうが・・・。
誰でも小さい頃は純粋だったと思う。
しかし、正義のヒーローに憧れていたはずの少年も、成長するにつれ、悪いことをやったりするようになってしまう。

欲望など、醜い心を捨てるのは難しい。
昔、ある寺の和尚は、仏門に尽くし、有名な僧になったが、最後に「これが私の似顔絵です。」と、墨で大きな丸を描き、真ん中に一つ、黒い点を打った。
その点は最後まで捨てきれなかった自分の煩悩を表しているのだと伝えられている






怠惰な発明家(4)
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美容院に行ってきました。
値段がリーズナブルなわりに小洒落ていてお気に入りの店ですが、本日もかっこよくカットしてくれました。
しかし美容院に行った後というのはいつも決まって問題が発生します。
それは、美容院で作ってもらった髪型は二度と家では作れないということです。
プロフィールには手先が器用とか軽率に書いてしまいましたが、日ごろオシャレに無頓着な自分にとって10万本の髪の毛達をコントロールするのは至難の業です。
何より厄介なのが頭という位置。後ろの方とかは鏡を使ってもかなり見にくい部分です。
「やりにくい!」「頭を取りはずしたい!」と思う方もいらっしゃるはず!

そこで、現在の日本国の科学技術力を駆使して下図のような頭いぢくりマシーンを、・・作りましょう!!
こいつは指に専用の機械を取り付け、モニタ画面を見ながら自分の髪型をセットする事ができます。
しかもまるで手元に自分の頭があるかの様に自然な姿勢で整えられるという優れもの!
日本は自他共に認めるロボット技術ナンバー1の国です!できます!!
                      
早速この原案を持ってソニーかどっかに乗り込もうと思います。
実用化されれば恐らく一台、・・・数百万・・・・・







人間の価値
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ぶりっ子してる女はダサいだの。かっこつけてる男はダサいだの。
言われる。

人間そういう人(かっこつけてる人など)に出くわすとなぜ不愉快になるのか、
はよく考えた事はないけれど…

例えば男がかっこつける事とかには僕は賛成派です。
誰かに憧れて、かっこつけてその人の真似をしてみたり。
憧れの対象であるその人だってはじめからかっこよかったわけじゃない。
そうやって真似をしているうちにそれがクセになって、そのうちに習慣になって、いつのまにかそういう人間になってるんじゃないかと思う。

自分は宗教屋ではないので説法はしたくないが、
命は平等である以上、人間に価値などはない。
しかし、人は皆、なにか憧れとなる価値観をもち、
それを目指して生きていく。

自分ももちろんそんな事を考えてきたし、それ自体、小学校、中学校、高校、大学、大学院と、大きく環境が変わるごとに変わってきた。
小学校の頃はどれだけ喧嘩が強いかが価値だった。
自分だけでなく 男は大半がそうだったんじゃないかと思う。
中学校になるといつの間にかどれだけ女の子にもてるかという価値にかわってゆく。前の価値を完全に捨てたわけではないが、新しい価値観の要素に入ってくる。
高校になると大人というものに憧れだす。
体つきとかでなくて、中身というか、子供と大人の違いを考えてみたりして。
どれだけ経験豊富なのかという事が自分の中では大人というもので、いろいろなものになるべくチャレンジした。
大学になるとさらに価値観は変わってゆく。
喧嘩が強い人よりも、
もてる人よりも、
経験豊富な人よりも、
価値のある人がいたのだ。(自分の中で)
それは”どれだけの人に必要とされているか”という事だった。

風邪をひいた時看病してくれた姉。小言を言ってくれる母。間違いを正してくれる父。
どこかへ連れてってくれる祖父。相談すれば喜んで知恵をかしてくれる祖母。
逆に彼らが僕を必要としてくれているかはわからないけれど。
それにしても自分の一日で他人のために費やしている時間のいかに少ない事か。

この価値観は今までの考え方と異質な感じがしたけれど、今までの目標よりいくらか好きになれた。
なによりこれを目指す事は”第10話:思考の思考”を逸脱しない。
”喧嘩に強い”やら”異性にもてる”やらに比べ、他人に害を及ぼす危険性も感じなかった。

ただ 当然ではあるが、他人に自分の価値観を押し付けたりしてはならないだろう。
例えば社長などにありがちであるが、人を見下す人はいる。
そういう人は、経済力や、ルックス、スタイル、学力など、自分にとって都合のよい尺度を用いて他人を蔑むものだ。
しかし もちろんそんな価値観に付き合う必要はない。

”どれだけの人に必要とされているか”という価値観も今の境遇の今の自分が”目標”として持つからよいのであって完全なものではない。
残念ながら世界には、例えば病院にだとか、運悪くしてか誰にも必要とされていないような境遇になってしまっているが がんばって生きている人だっているからだ。
そんな人たちに”あなたは価値がありません”などと誰が言えようか